主の日の祈り

主の日の礼拝にて

1/8礼拝にて

一人ひとりを、あなたが名を呼び、招いてくださった幸いを感謝致します。どうか、その呼び声が、礼拝のなかで――とくにあなたの御言葉と御子を祝う聖餐の中で――暗い心を吹き飛ばすほどはっきりと聞こえ、見えてまいりますように。あなたに名を呼んでいただかなくてはなりませんでした。それほどに、自分自身を責め、深く自分を厭い、あなたの子どもとしていただいているという恵みも、型どおりのものとしてしか受けとめなくなってしまうこともあるからです。普段の生活では隠しておりましても、最も私どもに深く巣くうのは、自分自身の罪といわざるをえません。深く抱え込んで、自分自身でもそれに気づかず、あるいは気づこうとせず、それゆえに理由もわからず、ただただ自分をもてあまし、他者を恐れ、関わりを築けないままに悩みを深めているだけのことになってしまいます。どうか、あなたの光の中で、私どもが本当は何に悩んでいたかということがはっきりとし、深く罪を抱え込んでいる私どもを本気であなたが名を呼んでくださり、「あなたもまたわたしの子だ」というあなたの愛の声を、魂の深くにいただくことができますように。
 年改まるといえども、依然として恐れの満ちている世界です。まじめに考えれば考えるほど、だれ一人として、たった一年の歩みすら明るく見通すほどの光を持ってはおりません。国同士、お互いが恐れ合い、牽制し合い、声高に自国の強さをアピールし合うような様相と言わざるをえません。政治的に重い責任を負っている人々をどうか憐れんでください。かつての戦いの悲惨を自分とは関わりのないものと考えてしまう安易さがあるのならば――戦争もまた選択肢の一つという安易さがあるのならば――どうか、悲しみを自分の国のこととして覚えていることができる冷静さを与えてください。どうか、紆余曲折を経たといたしましても、平和の足取りこそ、前に進みますように。
 世界のキリスト者たち、世界の教会を覚えてください。戦火に追われている教会の人々、信仰の自由が無いままに隠れるようにして主の日を過ごしている教会、あまりにも正しい自分の答えを握りしめ狭量になる教会の人々、すべてのキリスト者たちに今朝、約束の御霊を与えてくださり、現実を上回る現実――あなたがこの歴史を導いておられるという現実――にまなざしが開かれる主の日でありますように。とくに、教会の指導者たち・御言葉の語り手たちをあなたが捕らえてください。堂々巡りにしかならないやせ細った自分の言葉を、神の言葉を正しく語ることで捨て去ることができますように。
 病んでいる人々に癒しを与えてください。とくにあの伝道者とその家族を憐れんでください。うずくまるような心が、ここにあるならば、その心をもあなたが癒してください。主の御名によって