主の日の祈り

主の日の礼拝にて

5/7礼拝にて

主の甦りを祝うためにここに集いました。十字架で苦しまれ、陰府にくだられて、しかし、そうした苦しみも闇も永遠ではないことを、甦りによって明らかにしてくださいました。どれほど確かな望みの土台の上に、私どもが立っているかを、再び知らせてください。
目に見えることに一喜一憂して生きてきたようにも思います。目に見える小さな自分自身の生活だけ、一週間のほんのわずかな時間だけで、あなたの働きを早計に評価してしまうような私どもであったかもしれません。自分の歩みをふり返っただけでも、確かと思われていた雲や霧が、思いがけず晴れたことを思い出すことができます。そうした数えうる恵みを思い起こしつつも、なお、今自分が見ているものがずっと続くと考えてしまうような信仰の弱さを覚えることも正直な私どもの姿です。
どうぞ、正直な心で、本音の心であなたを信じ、あなたを賛美する私どもへと私どもを引き戻してください。そのような恵みを備えてくださるのも、慈愛に満ちた父、あなたであると信じています。自分一人の記憶や意志力では到底成り立たない信仰であります。なくてはならぬもの、あなたの恵み、キリストの言葉を求めています。だからこそ、こうして御前にあるのです。これもまた正直な私どもの心、信仰です。どうか、ここに、御前に、あなたの教会にやって来た私どものこころの奥にある、あなたに取りすがるような思いを、御霊によって極め知ってください。私どもの現実とあなたの恵みがあまりにも離れてしまっていると思い込んでいる心を打ち砕いてくださって、あなたと私どもがどれほど近いかを、どうか御言葉が、そしてまた祝われる聖餐が、明らかにしますように。どうか、キリストのうちに自分自身を見出す幸いへと導いてください。
混迷を深める世界にあって、指導者にしても、政策にしても、憲法にしても、どれが混迷を解くものであるかが、様々に考えられています。恐れから込められる力もあります。閉ざされる扉もあります。けれども、どれも確かな希望を約束してくれているとは到底思えません。いったい、どこにたどり着くのかと、怖じ恐れる心が増すばかりにも思えます。政治的指導者たちを、そしてその指導者を選ぶ各国の国民も、どうかあなたの憐れみのうちに置いてください。とくに、各国の教会を、愛の御霊によって強めてください。加熱する人間の感情を、冷静な愛によって冷やしてください。
教育ボランティアを失った家族を御心に留めてください。あるいはまた、苦しみや悲しみのすべてを、どうかあなたのかえりみのうちに置いてください。すべての叫びや涙を、あなたの慰めのうちに置いてください。