主の日の祈り

主の日の礼拝にて

11/27礼拝にて

天の父なる御神、
イエス・キリストが私どもに与えられていることの幸いを、私どもの恐れが取り除かれるほどに知ることができるように、きょう導いてください! 神の民に、また弟子たちに、「恐れるな」と、何度も不信仰を叱咤しつつ、確かな平安へと導こうとされたあなたの御姿、またあなたの御声がここに明らかになってまいりますように。私どもの願いは、本当は多くはありません。私どもの願いは、主を見て喜ぶことです。この主イエスによって、慰められない悲しみも、取り除かれない恐れもないはずだと信じています。ただしかし、あなたの強く暖かな御手を、改めて一つひとつの悲しみや恐れにお示しいただく必要があります。そのために、御霊をあなたは約束してくださいました。私どもの本音にまで染み入るほどのあなたの慰めを、どうかお与えください。
愛に生きることができない自分を悲しみつつも、それが当たり前であるかのように捕らえはじめているとすれば――自分の貧しい愛のほうへあなたの愛を引き寄せようとしているとすれば――どうぞ、私どもが学ぶべき愛、私どもが満たされるべき愛を、十字架の前で知らせてください。キリストの愛にこそ、私どもが迫られ、引き寄せられますように。
世界の平和を与えてください。アドヴェントが始まりました。天には栄え、地には平和と、どうか世界の教会が声を一つに合わせることができますように。どうか、教会がクリスマスを年中行事に終わらせることがありませんように。御子が与えられたことに深く思いを巡らせ、平和の足取りを取り戻せますように。偏狭な思いから解き放たれますように。うち捨てられたと思い込む心を訪ねるような教会の働きとなりますように。
今朝、肉体の弱さ、病、痛みのゆえに、ここに集えない者たち、御心にとめてください。癒しを与えてください。教団をあげて祈っているあの伝道者を、どうか癒してください。再び、働きに帰ることができますように。
御言葉を待ち望みます。

11/13礼拝にて

天地の造り主、全能の父なる神を信ず、と今朝もまた、古くから変わりない幸いな呼び声――あなたの御名を信ずる幸いのもとに集まりました。そしてこうして御子イエスの十字架のもとで、十字架に表された人間の憎しみや破壊すら、あなたの造り主としての御名を傷つけることができないことを、示してくださいます。どうか、御霊を送り、揺るぎないあなたの御業に、再び目を開くことができるようにしてください。
あまりに早く、しかも荒々しい世界の変化に、たじろいで過ごした一週間でした。だれもが幸せを願いますが、願う幸せの裏側でうごめくものの空恐ろしさにたじろいでいるのです。しかし主よ、今こそ、天地の造り主、全能の父なる神を信じさせてください。そして、時代がいかにあろうとも、かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁き給うキリストの御手のもとにある信仰から退くことがないように守ってください。
避け所であるあなたの前にやってくるとき、私どもが、人の言葉に、見えてくる景色の明暗に、一喜一憂を繰り返してきたのではないかと、改めて自らを訝(いぶか)しんでいます。どんな言葉に出会いつつも、どんな景色に囲まれつつも、なお喜び続けていたいのです。この国がどのような変化を遂げようとも、ここに恐怖や不安を解かすあなたの希望の灯火が燃えていることを信じ続けたいと願っているのです。主よ、そうした願いは、間違ってはいないでしょう。それゆえに求めます。信仰と愛と希望を保つために、変わることのないあなたの言葉を、より深く・より確かに出会わせてください。時を置かずに、どうか今朝、御霊を注いでください。弱くなる信仰であるならば、どうか強めてください。
世界の教会を、この日覚えてください。アメリカの教会、自分の国の幸福ばかりを追い求めはじめている先進国に立てられている各国の教会、プロテスタントカトリック、正教のいずれの教会も、自分の言葉とは異なる他者であり給うあなたの言葉に目を覚ましますように。教会に与えられた御霊を今こそ息づかせてください。語り方は異なれども、本当に必要な言葉、愛と慎みの言葉をどうぞ語り・聞くことができますように。
病にある者たちを憐れんでください。教育ボランティアに癒しを与えてください。この日、健康が許されずに教会に集えない淋しさの中で主の日を過ごしているどの魂も、あなたの顧みの中に置かれますように。
すべての恐れ、悲しみ、孤独、打ち捨てられた思い、うずくまる心が、どうか慰めを得ますように。主の御名によって

11/6礼拝にて

こうしてみ前に招かれることが、どれほど幸いなことでしょうか。追いかけてくる自らの罪深さがありつつも、それよりももっと強く、確かに追いかけてくるあなたの恵みの御手が、どれほど私どもを強く捉えていてくださるか、改めて御前で思い起こしております。あなたを信ずることを弱めること多く、思いわずらいに捕らえられること多く、それゆえに他者に思いを向けること少なく、つい先ほどまで考えていたこと、あるいは今ここに御前にすら持ち込んでいる、どうしようもない心があります。しかし、気づけばあきらめることなく、あなたを呼んでいます。信仰が守られていたことを知り、感謝を献げさせてください。もはや私どもの信心の力ではありません。信ずることさえも、あなたの真実に担われているのです。深い感謝と喜びに満ちた恐れを、今ここで回復させてください。
神が働いておられないかのような世界を見せつけられてまいりました。ニュースで聞かれることにも、疲れを覚えています。世界がいったいどうなるのかと不安に思う心が、満ちています。
主よ、ご自身の民をこの日に――世界にあるご自身の教会を――この日に訪ね歩いてください。宗教や肌の色や自分自身の利益や正義に閉じこもる心があります。聖霊を教会に注いでください。あなたを心深くに頂き、自らの罪深さを悔いる以外に、向かい合う人々の悲しみや苦しみに目が開かれる以外に、人間の心は変わりません。ひと事ではありません。自分自身もまた、どれほど人に心を閉ざしてきたかと、改めて思います。どうぞ、他者を思いやる心を備えさせてください。愛に生きられますように、平和に生きられますように。
政治的な責任を負っている人々を、どうぞ憐れんでください。思慮深く、冷静であることができますように。悲しみを大きくするような過ちを犯すことがありませんように。
病床にある信仰の仲間たちをどうぞ御心にとめてください。癒してください。とくに教団を挙げて祈っているあの教育ボランティアを、どうぞ癒してください。家族も守ってください。
また、今朝ここでうずくまるような思いを抱えて御前にある者たちも、御言葉に希望を、光を、見いだせますように。神の国がここにやって来ますように。
主の御名によって祈ります。

10/30礼拝にて

あなたに向かう喜びの足取りを備えてくださって、こうしてまた御前に集うことが許されました。私どもを助けてくださるあなたの御姿を肉眼で見てきたわけではありませんし、思い通りの一週間であったわけでもありません。しかし、このように、一つの心で主を呼ぶ願いを抱きつつ、あなたを父よと呼ぶことができるのは、あなたが私どもの信仰を守ってくださったという以外にはありません。そのことを喜びつつ、熱い心、信仰に生気を取り戻しつつ、この主の日の朝を過ごさせてください。あるいは、習慣となってしまい、恵みに心を振るわせて感謝することもなく過ごしてしまう心があるならば、今、恵みの大きさや深さをただしく知ることができますように。あの神の独り子主イエス・キリストとが、私どもを友と呼んでくださっている途方もない恵みに、再び目が開かれますように。  愛に生きるように、主イエスは新しい戒めを与えてくださいました。友のために命を捨てる生き方を主イエスは身をもってお示しくださいました。考えれば考えるほど、重い使命です。果たしてそう生きているかと問われれば、あなたに憐れみを求め、ひたすらな祈りのうちに愛を育てていただく以外にはありません。自分の愛の貧しさを是認する心を背中に回して、ひたすら御子に示された愛に向き変わり続けていることができますように。光にふり返る悔い改めを生きることができますように。もし、私どもが主の愛の戒めを「それはそれとして」、貧しい自分自身の光を光としているならば、どうか、自分自身に光のないことに気づくことができますように。潔く主にふり向くことができますように。 大きな怪我をしたIさんをあなたが顧みてくださって、癒してくださっていますことを感謝致します。祈っている宣教師をどうぞ守り、癒してください。再び働きに戻ることができますように。ほかにも病床で過ごしている愛する信仰の仲間たちがあります。どうぞ、この主の日、献げられる祈りにこたえ、あなたの慰め豊かな顧みの内に置かれますように。 政治的な責任を負っている人々を憐れんでください。難しい世界です。私ども人間自身が世界を難しくしてしまっています。その上、どの人間の知恵もこうした難局には不十分に思えます。世界が戦争という誤りに迷い込むことがないように守ってください。すでにある紛争やそれゆえに住むところを失っている人々を憐れんでください。 主の御名によって祈ります。

10/23礼拝にて

まことの光であり給うあなたの前に、私ども自身を晒すように出ることができる幸いを感謝致します。御子イエス・キリストが「わたしが世の光だ」と宣言してくださって、その光が死の闇にすら打ち勝つものであることをお示しくださいました。そうしてこの通り、主の日ごとに、甦りの主を祝う集いを、喜びの内に守り続けてくださっていますことを心から感謝致します。
物事が明るいようにとだれもが願って生きています。世界も、社会も、個人も良いもの、自分自身に安心を与えるものを数えようと願っています。その願いが強いのは、暗さが勝ってしまうのではないかと恐れているからでもあります。私ども人間が自分たちで自分を明るくできるほど確かな光は持っていないと言うことをどこかで知っているゆえの恐れであります。
確かに、こうして御前にありながらも、私ども自身の力がこのたった七日の道のりにおきましても、十分に自分自身を支えるものであったかと問い返さざるを得ません。人にかける言葉にしても、つくる表情にしても、相手の思いやりを知りながらでも、愛に生きる力が十分であったとはどうしても言えません。それゆえに、祈りを携えて御前に立つことが許される幸いを心一杯に受けとめつつ、喜びに満ちてこうしてここにあります。光を数えるのに、十字架とよみがえりのキリストの光を数えることができるようになっているとは、何という幸いでしょう。
こうした幸いを知らない世界があります。あなたがたが世の光だ、と主イエスはご自身の光を託すように私どもを世界に派遣してくださっています。まことの光である主イエスを指し示す教会の証しの業、宣教を祝福してください。あの人にもこの人にもと、今、本当は深く福音の光を求めている人々を祈りに携えつつ、今朝の喜びの祝いを過ごさせてください。
世界の平和を与えてください。小さな平和の力でも、あるいはそれが利害の調停であっても、平和の歩みを進めるものであれば、どうか祝福してください。いずれにしても力乏しい人間を憐れんでください。政治的に重い責任を負っている人々を憐れんでください。
病んでいる者たちを思い起こしつついます。病床で主の日を迎え、祈りつつも淋しさを抱えている人々を主が御霊をもってお訪ねください。祈りを重ねている宣教師の治療が進みますように。
共に集えない仲間たちを御心にとめてください。
人前には明らかにしない様々な心を抱えて集った私どもに慰めを与えてください。主の御名によって祈ります。

10/16礼拝にて

イエス・キリストの十字架を感謝致します。その御許にこそ、集うことが許されています。あなたがどれほどの思いをもって、私どもを迎えていてくださるか、今、十字架に目を注ぎつつ、思い起こすことができますように。あなたが御霊を送ってくださらなければ、心動かすこともなく、十字架の御許で過ごしてしまうことがあり得るのです。信仰の喜びを新しくしてください。あなたから注がれている真実が、私どもの人生において経験するどのような事々にも、谷間のような経験にも、隈無く注がれていることに改めて気づくことができますように。
全能の父なる神を信ず、そう告白するように導かれていますが、数えきれぬほど多くの信仰の先達が、人生をかけてそう告白し裏切られることがなかったのですから、私どもも自分自身を寄りかけてそう告白したいと思います。
十字架の前で、改めて私どものためにはこれほどの御子の苦しみが必要であったかを思い起こしております。絡みつく罪があります。つい先ほどまで口で語っていたこと、心で思い巡らしていたことさえ、あなたの御前には恥ずかしいものであります。人を愛すること弱く、自分自身へのこだわりを重ね、主イエスの御姿から離れて行ってしまいます。あるいは、主の御姿から離れてしまっていることにすら、当然のことのように考えてしまうこと、気づかないまま生きてしまう信仰の弱さがありますならば、あなたの愛によって私どものあなたへの愛を再び燃え立たせてください。喜んで自分の今の姿を捨てることができるようにしてください。私どもを新しくしてください。
世界で祝われいる主の日を祝福してください。主の慰めに満ちた訪問をどの教会も受けますように。とくに、信仰の自由が許されていない国々で、密かに祝われている礼拝を祝福してください。福音がさらに広がりますように。
病んでいる人々を憐れんでください。病んでいる伝道者のための祈りの要請を受けています。どうぞ、癒しを与えてください。再び、その働きに立ち返ることができますように。
政治的な責任を負っている人々を憐れんでください。世界を思い起こすたびに暗い思いを抱かざるを得ない世相にあって、どうぞ、教会は主のお出でを待つゆえに、明るく世界を見通していることができますように。闇は光に勝たなかった、ということを、揺るぎなく信じていることができますように。
主の御名によって祈ります。

10/9礼拝にて

はばかることなく恵みの御座に近づくことを許してくださる父なる御神、またさらに御子キリストによってご自身のほうから私どもに近づいてくださった父なる御神、それゆえにこうして私どもがあなたに近づくことを待ちわびていてくださり、喜んで迎えてくださることを感謝致します。
あなたが父でおられること、あなたの御心こそ成っていくことを、心から喜んでいることができる私どもでありますように。自分の感情や願いやどうしても譲れない頑なな心があるのならば、どうか、そうした心にこそ、あなたが触れてください。砕けた魂、悔いた心こそ、あなたは喜ばれます。悔い改めは、光なるあなたに向きを変える喜ばしいものです。しばしば、砕かれることを嫌う私どもですが、しかし、砕いてくださるのがあなたであるならば、そうしてあなたが私どもを新しく造りかえようとしてくださるのであれば、砕き給うあなたの御手を受けいれていることができますように。砕かれつつも、望みに生きていることができるようにしてください。本当は、すでに砕けた心を抱えているのかもしれません。人前には隠している自分自身の破れを、今ここで正直に御前に認めることができますように。
病、不自由、高齢のゆえに礼拝の喜びを共にできない者たちをあなたが憐れんでください。主の日の喜びが、そうした方々にも与えられますように。
主の日ひと日、この国のキリスト教会を憐れんでください。どの教会の礼拝も主よ、あなたが祝福してください。とくに、苦闘している教会や伝道者たちに顧みを注いでください。東北や熊本や被災地にある教会を、覚えてください。私どもの教団に属するどの教会にも、今朝、新しく御霊を注いでください。
世界の教会を憐れんでください。各々ほかの人のことも考えなさい、と言われた主の言葉を、教会のあり方をもって示していることができますように。キリスト教国と言われてきた国が、自国の利益にだけこだわって、この世界の中で主から託されている使命、愛と平和に生きる使命を放り出してしまうことがないように守ってください。国としての建前にも、どうか主の愛と平和がにじみ出ますように。政治的に重い責任を負っている人々を憐れみをもって導いてください。
私どもも今朝、ここであなたからの言葉を聴き得ますように。今朝、御言葉を聴きつつ、新しくなれますように。抱えている現実がどんなに複雑でありましても、ただひとえにあなたの愛を知った信仰の初心、ただひとえにあなたの導きを信じた信仰の初心に立ち返ることができますように。
主の御名によって祈ります。