主の日の祈り

主の日の礼拝にて

10/23礼拝にて

まことの光であり給うあなたの前に、私ども自身を晒すように出ることができる幸いを感謝致します。御子イエス・キリストが「わたしが世の光だ」と宣言してくださって、その光が死の闇にすら打ち勝つものであることをお示しくださいました。そうしてこの通り、主の日ごとに、甦りの主を祝う集いを、喜びの内に守り続けてくださっていますことを心から感謝致します。
物事が明るいようにとだれもが願って生きています。世界も、社会も、個人も良いもの、自分自身に安心を与えるものを数えようと願っています。その願いが強いのは、暗さが勝ってしまうのではないかと恐れているからでもあります。私ども人間が自分たちで自分を明るくできるほど確かな光は持っていないと言うことをどこかで知っているゆえの恐れであります。
確かに、こうして御前にありながらも、私ども自身の力がこのたった七日の道のりにおきましても、十分に自分自身を支えるものであったかと問い返さざるを得ません。人にかける言葉にしても、つくる表情にしても、相手の思いやりを知りながらでも、愛に生きる力が十分であったとはどうしても言えません。それゆえに、祈りを携えて御前に立つことが許される幸いを心一杯に受けとめつつ、喜びに満ちてこうしてここにあります。光を数えるのに、十字架とよみがえりのキリストの光を数えることができるようになっているとは、何という幸いでしょう。
こうした幸いを知らない世界があります。あなたがたが世の光だ、と主イエスはご自身の光を託すように私どもを世界に派遣してくださっています。まことの光である主イエスを指し示す教会の証しの業、宣教を祝福してください。あの人にもこの人にもと、今、本当は深く福音の光を求めている人々を祈りに携えつつ、今朝の喜びの祝いを過ごさせてください。
世界の平和を与えてください。小さな平和の力でも、あるいはそれが利害の調停であっても、平和の歩みを進めるものであれば、どうか祝福してください。いずれにしても力乏しい人間を憐れんでください。政治的に重い責任を負っている人々を憐れんでください。
病んでいる者たちを思い起こしつついます。病床で主の日を迎え、祈りつつも淋しさを抱えている人々を主が御霊をもってお訪ねください。祈りを重ねている宣教師の治療が進みますように。
共に集えない仲間たちを御心にとめてください。
人前には明らかにしない様々な心を抱えて集った私どもに慰めを与えてください。主の御名によって祈ります。

10/16礼拝にて

イエス・キリストの十字架を感謝致します。その御許にこそ、集うことが許されています。あなたがどれほどの思いをもって、私どもを迎えていてくださるか、今、十字架に目を注ぎつつ、思い起こすことができますように。あなたが御霊を送ってくださらなければ、心動かすこともなく、十字架の御許で過ごしてしまうことがあり得るのです。信仰の喜びを新しくしてください。あなたから注がれている真実が、私どもの人生において経験するどのような事々にも、谷間のような経験にも、隈無く注がれていることに改めて気づくことができますように。
全能の父なる神を信ず、そう告白するように導かれていますが、数えきれぬほど多くの信仰の先達が、人生をかけてそう告白し裏切られることがなかったのですから、私どもも自分自身を寄りかけてそう告白したいと思います。
十字架の前で、改めて私どものためにはこれほどの御子の苦しみが必要であったかを思い起こしております。絡みつく罪があります。つい先ほどまで口で語っていたこと、心で思い巡らしていたことさえ、あなたの御前には恥ずかしいものであります。人を愛すること弱く、自分自身へのこだわりを重ね、主イエスの御姿から離れて行ってしまいます。あるいは、主の御姿から離れてしまっていることにすら、当然のことのように考えてしまうこと、気づかないまま生きてしまう信仰の弱さがありますならば、あなたの愛によって私どものあなたへの愛を再び燃え立たせてください。喜んで自分の今の姿を捨てることができるようにしてください。私どもを新しくしてください。
世界で祝われいる主の日を祝福してください。主の慰めに満ちた訪問をどの教会も受けますように。とくに、信仰の自由が許されていない国々で、密かに祝われている礼拝を祝福してください。福音がさらに広がりますように。
病んでいる人々を憐れんでください。病んでいる伝道者のための祈りの要請を受けています。どうぞ、癒しを与えてください。再び、その働きに立ち返ることができますように。
政治的な責任を負っている人々を憐れんでください。世界を思い起こすたびに暗い思いを抱かざるを得ない世相にあって、どうぞ、教会は主のお出でを待つゆえに、明るく世界を見通していることができますように。闇は光に勝たなかった、ということを、揺るぎなく信じていることができますように。
主の御名によって祈ります。

10/9礼拝にて

はばかることなく恵みの御座に近づくことを許してくださる父なる御神、またさらに御子キリストによってご自身のほうから私どもに近づいてくださった父なる御神、それゆえにこうして私どもがあなたに近づくことを待ちわびていてくださり、喜んで迎えてくださることを感謝致します。
あなたが父でおられること、あなたの御心こそ成っていくことを、心から喜んでいることができる私どもでありますように。自分の感情や願いやどうしても譲れない頑なな心があるのならば、どうか、そうした心にこそ、あなたが触れてください。砕けた魂、悔いた心こそ、あなたは喜ばれます。悔い改めは、光なるあなたに向きを変える喜ばしいものです。しばしば、砕かれることを嫌う私どもですが、しかし、砕いてくださるのがあなたであるならば、そうしてあなたが私どもを新しく造りかえようとしてくださるのであれば、砕き給うあなたの御手を受けいれていることができますように。砕かれつつも、望みに生きていることができるようにしてください。本当は、すでに砕けた心を抱えているのかもしれません。人前には隠している自分自身の破れを、今ここで正直に御前に認めることができますように。
病、不自由、高齢のゆえに礼拝の喜びを共にできない者たちをあなたが憐れんでください。主の日の喜びが、そうした方々にも与えられますように。
主の日ひと日、この国のキリスト教会を憐れんでください。どの教会の礼拝も主よ、あなたが祝福してください。とくに、苦闘している教会や伝道者たちに顧みを注いでください。東北や熊本や被災地にある教会を、覚えてください。私どもの教団に属するどの教会にも、今朝、新しく御霊を注いでください。
世界の教会を憐れんでください。各々ほかの人のことも考えなさい、と言われた主の言葉を、教会のあり方をもって示していることができますように。キリスト教国と言われてきた国が、自国の利益にだけこだわって、この世界の中で主から託されている使命、愛と平和に生きる使命を放り出してしまうことがないように守ってください。国としての建前にも、どうか主の愛と平和がにじみ出ますように。政治的に重い責任を負っている人々を憐れみをもって導いてください。
私どもも今朝、ここであなたからの言葉を聴き得ますように。今朝、御言葉を聴きつつ、新しくなれますように。抱えている現実がどんなに複雑でありましても、ただひとえにあなたの愛を知った信仰の初心、ただひとえにあなたの導きを信じた信仰の初心に立ち返ることができますように。
主の御名によって祈ります。

10/2礼拝にて

上半期を過ごし、こうして10月を迎えるまで、私どもの歩みを導いてくださったことを感謝致します。万物を導いておられる神を共に見上げるようにしながら、歩みを進めてまいりました。私どもの個々人の、限られた経験でも、よくわからなかったあなたの御心が、あとになってよくわかるようになることを重ねます。どうぞ、摂理の神の恵みを数えつつ、あなたにゆだねる信頼へと育ててくださいますように。摂理を頭では理解しつつも、思いがけない事々の渦中にいると、あなたの尊い導きに思い至らず、ただただたじろぐこと、うなだれて過ごしてしまうことがあるのです。しかしまた思い起こします。かつてあなたを忘れ去るようにうなだれて過ごしていたときにも、あなたは私どもを慰め深く訪ねてくださいました。悩み果てるときにもそのことを私どもの魂に留めているからこそ、あなたの御前を離れずに、今朝もこうしてここにあるのです。恥ずかしいほど小さな信仰です。けれども御子は辛子種ほどの信仰でも献げよとおっしゃいました。どうか、まずしいけれどもあなたを見上げている心をあなたへの信仰としてお受け取りください。
世界聖餐日を迎えています。カトリック、正教、プロテスタントの教会が世界で一つに聖餐を祝おうとしているこのひと日を祝福してください。しかしまた、世界と日本の教会が、万物を導くあなたをどれほど示し得たかと申し訳なく思います。大きく、広やかにあなたを信じることを投げ出してしまって、世界の恐れや騒乱に巻き込まれてしまっている私どもではなかったかと思います。あるいは、そう自らをいぶかることすら忘れてしまっているのかもしれません。
私どもの教会を導いてください。こうしているときにも、今朝も教会の前を、カメラを向けながら、あるいは掲示板に目を注ぎながら多くの人が行き交っています。ほんとうのところ、あなたを求めている人々です。どうか、伝道を祝福してください。教会堂に目を注ぎすぎて行く人々も、どうか、共に聖餐を祝うところまで導かれ、あなたの御許に憩いを見出すことができますように。気になっているあの人、この人を携えて、御前に出ることが許されますように。どうか、この教会の伝道を祝福してください。
政治的に大きな責任を負っている人々をあなたが憐れみ、導いてください。
世界にある様々な悲しみや苦しみ、混乱、争いを御心にとめてください。
共に集えない者達、病んでいる者達、痛みや不快や不自由をおっている仲間たちに、主の顧みを注いでください。

9/25礼拝にて

あなたの御声の響くところへと戻ってまいりました。あなたの御声こそ私どもに愛を示すかけがえのないものであることを知っています。そしてまた、その御声がなければ、ただただ自分の考えで考え続け、堂々巡りを繰り返す自分であることも知っているからです。私どもを愛し、赦し、正しくし、きよめるあなたの御声を私どもに与えてください。
ほんとうに様々な思いをめぐらせて生活してきました。あなたの御業を思い起こし感謝を献げて歩んでまいりました。御言葉を与えてくださり、心が新しくなる恵みに支えられました。あなたへの信仰がなかったら、いったいどのようにして生きていただろうかと思います。
しかしまた、心穏やかでない思いも抱えています。いつも相手が間違えているとばかり考えてしまう癖がなかなか抜けません。あなたの御前では心を明け渡し、あなたの御心を知ることがふさわしい姿であることは知っています。しかし、ここにやって来ても、いまこうして祈っている最中でも、まだ自分が正しいという声が消えてはいません。
私どもはあなたの大声を求めません。小さな細い声でも良いのです。どうぞ、心の奥底を訪ねてくださって、思いわずらいに捕らえられ不自由になってしまう私どもの思いや声を消し去ってください。心の底からあなたにゆだね直すことができますように。心してあなたの御言葉の前に留まらせてください。
世界に平和を与えてください。自分のことばかりではなく他者のことも考えよと言われた主の言葉が、どれほど重みのある言葉かを知ります。私ども個々人ばかりではなく、国や民族も相手のことを思いやることが難しくあります。どうぞ、そうしたゆずらないあり方がぶつかり合うなかで、愚かしい戦いを繰り返すことがないように、世界を守ってください。とくに、政治的に重い責任を負っている人々をどうか憐れんでください。また重い心で恐れを深める人々に、どうか、立てられている教会が、慰めと希望を毅然と指し示すことができますように、この主の日にも主の霊を世界の教会に新たに注いでください。
台風や地震の災害の爪痕の中で過ごしている多くの人々がいます。あなたの憐れみを注いでください。
今朝、共に集えない私どもの仲間たちを、あなたの御心のうちにとめてください。病んでいる者たちに癒しを与えてください。
主の御名によって祈ります。

9/11礼拝にて

帰るべきところ、私どものいのちの源なる神の御前に、こうして帰ってくることができました。あなたの御前で、あなたの確かさ、あなたの慈しみの深さをお教えいただくことが、どれほど私どもの生活を支えていてくださることでしょうか。あなたを忘れていることが何と多いことかと思います。それゆえに恐れ、望みを失いそうになり、息苦しさを感じますが、促されて振り仰げば、あなたの揺るぎない愛をいつでも仰ぐことが許されます。むしろ、信頼を弱めた自分自身を申し訳なく思います。改めて、あなたの慈しみのもと、愛の土台の上におかれている私どもであることを感謝致します。

先に眠りについた人々、私どもの先達を思い起こしながら、今朝の礼拝を過ごしております。在りし日の面影を偲べば、ここにその姿がないという淋しさも追いかけてまいります。こうした私どもの心の深くに抱えているものを、どうぞ、あなたの御霊によって読み知ってください。ほんとうの意味ではどこでも癒されることのない悲しみです。しかし、あなたのもとでは癒されると信じつつ、御前にあるのです。どうぞ、この私どもの信仰、信頼を受けとめて、顧みを注ぎ、慰めを与えてくださいますように。

世界がどうなるのかという恐れが満ちています。911のテロから、15年目のこの朝、改めてお互いが信じ込む正義が、どれほど新しい悲しみをつくり出してきたかとふり返らせてください。今なお、恐れの中で、お互いに武力を突きつけ合う関係が、より厳しいものとなっています。世界がかつての大戦で経験したあれほどの悲惨を忘れ去ってしまうような人間の愚かさを思います。どれほど自分の事情や感情に縛られてしまうのかと思います。どうぞ憐れんでください。政治的に重い責任を負っている人々をあなたが憐れんでください。そしたまたとくに、キリスト者たちが戦いを厳しくしてしまうことがないように、主イエス・キリストに学ぶ歩みをつくることができるように守ってください。そのために、どの国のどの教会でも、主の平和を学ぶことができますように。

新しい心、新しい思い、新しい歩みを求めています。私どもでは考えつかないあなたの言葉による以外にはありません。どうぞ、あなたのみ言葉をください。

共に集えない者たちも御心にとめてください。

主の御名によって祈ります。

9/4礼拝にて

豊かなあなたの愛の前に引き出されています。様々なところを通りつつ心に本当に様々の思いをめぐらせて生きてまいりました。こうして、御前に静まることがなければ、その思いをめぐらせていたことさえ忘れてしまって、愛にもとる自分であったことや深くに抱え込んでいる汚れに気づくことさえなかったと思います。そのような自分自身を深く知らされつつ、それでも私どもを御許に呼んでくださるあなたの呼び声を知るときに、あなたの愛が揺るぎないことを知ります。心から感謝致します。
自分の古い姿から立ち上がるように御前にあります。あなたがお示しくださる愛の姿は、敵をも愛する愛でありますし、そうであるからこそ、それは私どもの知らない、新しい愛の姿であります。自分が愛したいものを愛し、そうでないものを疎んじる、そういう古い愛、こうした愛には限界があると自分でも気づいているのです、そうした古い愛を脱ぎ捨てたいと思っているのです。
十字架の主の御姿を、今朝、私どもの魂の奥深くに写すことができますように。そのために、み言葉と聖餐を祝福してください。
台風の災害に遭った人々をあなたが憐れんでください。こうした度重なる災害の背後に、大きな気候変動がささやかれています。私ども人間が造り上げてきた世界のありようを、どうぞ、問い直すことができますように。手を取り合う世界でありますように。間違っても混乱を戦いにつなげてしまうことがありませんように。
9月を迎えました。様々に実りを得る季節となりますように。お互いの労をあなたが祝福してください。また、共々に喜び合う関わりをつくることができますように。
共に集えない病んでいる者、痛みや不快や不自由に耐えている者にあなたが祝福を与えてください。ここに集いつつも抱えている嫌みやわずらいが、どうかみ言葉を聴くうちに、あなたにゆだねるうちに、軽くされますように。
主の御名によって祈ります。