主の日の祈り

主の日の礼拝にて

3/5礼拝にて

明るい春の光に照らされつつ、御前に集いました。主の十字架に思いを集める季節を迎えました。闇がどれほど深くとも、しかしあなたがお造りくださった光が闇に打ち勝つことを知らされております。十字架に貫かれたあなたの愛こそ、すべてに勝つものです。改めてそれを信じることができるように、今日、この主の日の祝いの中で知らせてください。恵みのかげりを思い描くような人生の、生活の部分がないわけではないのです。何度でもあなたが光を持ち込んでくださらなければならないところを抱えているのです。しかしまた、あなたが恵みのお方であることをおやめにならないと信じているからこそ、いま、ここに集っています。御言葉の光で思いがけない光を与えてくださることを信じています。新しい言葉をください。私どもの知らなかった恵みを知らせてください。光がこんなにも強いものだということを、私どもの思い込みを吹き飛ばすほどの御言葉を、御霊の風を与えてください。
私どもの疑い、あなたを小さくしてしまう罪が、恵みの豊かさに生きることを妨げてしまうからです。私ども自身がそこにわだかまってしまうことを思い起こします。ひとの罪をあげつらって、自分の過ちに気づかなかったことを。あなたのなさることにつぶやき、不平を抱きながら、御言葉を聴くことに打ち込み、祈ることに打ち込む生活を作らなかったこと。数えれば切りがない私どもの罪であります。
今、主の食卓を備え招いてくださる神よ。ぬかずいて真の悔い改めをすることができますように。へりくだる喜びを、そこで主を仰ぎ見る豊かさを味わわせてください。
私どもの国を思います。真実に国を愛したいと思います。この国を顧みてください。政治に責任ある者から、だれの目にもとまらぬような生き方をしている者に至りますまで、御心ならば、あなたの顧みのうちに置かれますように。この国に建てられて置かれている教会として、キリスト者としての責任をもう一度、はっきりとわきまえさせてください。総会を経ましたが、十字架と甦りに全存在を賭ける教会の歩みをもう一度整えさせてください。
私どもの祈りも、言葉も届かないもどかしさの中にいながら、心に覚えている悩みがあります。疲れ果てつつなお他者へのいたわりを強いられている者があります。依然として変わらぬ痛みや病の中で、ただ祈を深めるしかない者がおります。どうか、あなたへの呼び声を高くする歩みでありますように。教育ボランティアを癒してください。どうか、私どもの祈りにこたえてくださいますように。御国を来たらせてください。御心を行ってください。主の御名によって祈ります。

【参考:加藤常昭著『御前に注ぐ祈り』(キリスト新聞社)69-71頁】