主の日の祈り

主の日の礼拝にて

6/26礼拝にて

様々な思いの中で生きてまいりました。決して晴れやかな、軽やかな心ばかりではありません。しかしそれ故に、戻ってくるのはここであると改めて思いを深めています。私どもの礼拝を受けいれてくださる父なる御神、受けいれてくださるのみならず、待ちわびてすらいてくださった父なる御神、大きなあなたのもとに今、深く息を吐きながらたたずむことができます幸いを感謝致します。主イエスの十字架の故に、あの隔ての幕を取り除いてくださって、一筋の心さえあれば、あなたを仰ぐことができるようにしてくださっています。
そのあなたの真実に応えて、今、求められているとおりに一筋の信仰を御前に献げさせてください。確かに信仰の心ばかりではなくて、いろいろな心があるのも事実です。しかし、あなたを呼び求める信仰が私どもにあることも、心を読み知ってくださるあなたであるからこそ、知られていることを感謝します。
自分たちの誇りにすがりつこうとするような、そこでどこか狭い心に生きてしまうようなありようが、個人の心ばかりではなく、世界を席巻しているようにも見受けられます。相手を受けいれようとする粘り強さを失っているような、私どもの世界であります。主よ、憐れんでください。今朝、世界中で献げられる主の日の礼拝に、あなたが御霊を送り、どの教会にも、そしてどのキリスト者たちにも、主イエス・キリストの御姿が焼き付けられますように。何が答えであるかを、先回りして造り上げるわけには行きませんし、それが正しいわけではありません。しかし、主イエスの御姿に自分自身を照らすことはどうしても求められていることでしょう。どうか、自分たちがよくわきまえている声が教会に共鳴するのではなくて、ほんとうは私どもが知ることがなく、考えつくこともない言葉の声、しかしそれでいて、私どもをつくる大切なみ声・時代を拓いていくあなたのみ声こそが響きますように。
今朝、この地で礼拝を献げている私ども自身のことでもあります。自分の心の声と同じ声を聖書の中に拾い歩いてしまうような私どもであるかもしれません。どうぞ、ほんとうに及び得ないほど恵み深いあなたのみ声が、他者であり給うあなたのみ声が、ここに響いてまいりますように。キリストのお出でから漏れてくる光に、しっかりと目を向けていることができるようにしてください。
ここに集う病んでいる者たち、あるいは病のために集うことができない者たちを憐れんでください。健やかさを取り戻しますように。また、病んでいる伝道者たちを覚えてください。働きを保ち、あるいは働きに帰ることができますように。各地で災害の苦しみにある人々をあなたが御心にとめていてください。主の御名によって祈ります。