主の日の祈り

主の日の礼拝にて

3/20礼拝にて(棕櫚主日)

イエス・キリストの父なる御神
主のご受難を深く思い起こすべき週を迎えました。与えられている恵みと愛の故に、心から感謝致します。
この一週間を思い返しましても、与えられている守りと導きが、そうした御子をくださるほどの愛に根ざしたものであることを思うときに、どれほど揺るぎないものであったかと思い返します。
恐れるな、思いわずらうな、どうして信仰がないのか、と主イエスに叱咤されなくてはならなかった弟子たちの姿は、私どもの姿と重なっています。揺るぎない愛のしるしである十字架を見るよりも、目の前の出来事に捕らえられてしまい、気付いてみれば恐れつつあなたの愛を疑っています。また、そのことにさえ気付かないで、恐れが当然であるかのように考えてしまう私どもです。
大胆にあなたを信じさせてください。十字架に表れているあなたの愛を知るためには、しかも、恐れを吹き払うほどにそれを知るためには、あなたのくださる御霊が必要です。どうぞ、約束してくださったとおりに、今御霊を注いでください!十字架の主イエスの御姿が見えてまいりますように。あらゆる恐れと闇の中に、それに勝つ光を投げかけてくださっている主イエスの御姿が見えてまいりますように。
教会の歩みをふり返れば、与えられた聖霊によって、み言葉を響かせ、そこでこそ息を吹き返すことを習い覚えてきた歩みです。同じ教会の中にある私どもであります。どうぞ、憐れんでください。ここであなたのみ声を聴けると信じて、留まっているのです。あなたの言葉を与えてください。
憎しみや戦い、災害や病によって、この世界は苦しんでいます。悲しみの中にあります。あなたにこそ、このうめきを聞き取っていただかなければなりません。このひと日、受難の主を思い起こす中で、世界中の教会があなたにこそ、苦しみと悲しみを訴え、建前でなく、ほんとうに祈っていることができますように。教会の毎年恒例の行事となっていくことから、どうぞ、教会を守ってください。強い祈りが生まれますように。私どもの手の限界、心を尽くしてもなお届き得ない人々もおります。「祈っている」という言い分けではなくて、ほんとうにそうした人々のために、祈りを深めさせてください。
この受難週の主の日を思い起こしつつも、共に集うことが許されない仲間たちを覚え、訪ねてください。
主の御名によって祈ります。