主の日の祈り

主の日の礼拝にて

1/31礼拝にて

主の御前に静まるひとときがこうして与えられていますことを感謝致します。
慌ただしい心で生きてきただけに、ただここにある姿も心もそのままにあなたの御前に座すことができる幸いを感謝致します。
波立つ心がなくなっているわけではありません。人々の言葉のなかを生きてきましたが、与えられた暖か関わりを感謝しつつも、思いがけない言葉に心を波立てることもしばしばです。あるいは、そのような恐れの心から、つい心に、あるいは口に、やはり冷たい言葉を語ってきたのかもしれないとふり返っています。そうした心を生活の現実のなかに置き去って、ここに座すことをあなたはお望みではないでしょう。心の深いところをお訪ねになりたいと願っておられるあなたです。ひょっとして、私どもの心は、あなたにもどうしようもないとあきらめていることがあるかもしれません。その不信仰が不信仰としてはっきりと見えてきますように。どんなに真実に、どうしようもない私どもの本音にあなたが向き合っていてくださっているか、どんなに望み無いと思われる姿にも、あなたがあきらめずに伴ってくださっているか、そのことを知らされて、ここからまた新しくされた歩みを踏み出すことができますように。み言葉がそれを描き出してくださいますように。私どもに霊をお与えくださったあなただからこそ、私どもの霊をこの上なく深くお訪ねくださると信じて、いま心をあなたに向けて上げます。どうぞ、ここに顧みを注いでください。
受験に取り組んでいる若い者立ちをささえてください。
依然として絶えない紛争、難民たちの上に、そしてそれを受けいれるための困難に直面している国々の上に、あなたの顧みを注いでください。
病床にある者たちを顧みてください。あなたの癒しを与えてくださいますように。
心ならずも、共に主の日を祝うことができない信仰の仲間たちの祈りに、あなたがみ思いを向けてくださいますように。
主の日の礼拝、この国の礼拝も、また世界で祝われる主の御名にあるすべての教会に、祝福を与えてください。赦しと和解に生きてくださった主の御姿が、どの国の教会にも現れてきますように。教会とキリスト者たちを祝福してくださいますように。
主の御名によって祈ります。