主の日の祈り

主の日の礼拝にて

10/11礼拝にて

主の守りを感謝致します。あなたが私どもの一週間の歩みを守ってくださいました。もし、あなたへの感謝を失ってしまって、生きているのは当たり前だと思う心があったならば、どうぞ、私どものいのちがどれほど神に守られて、あなたによって生かされているものであるかということをみ言葉によって明らかにしてくださいますように。「昨日と同じ日が続くだけ」と時間が過ぎて行くことに望みを失っているのならば、目に見えないところでどれほど弛みなくまた誤りなくあなたのご計画が進んでいるかに目を開くことができますように。「なるようにしかならない」と過ぎゆく日々をただ力なく受けとめているだけならば、あなたが慈しみをもって作ろうと思い定めてくださっていることと、あなたの御心の通りになる以外にないという信仰へと、引き戻してください。どれほど確かなあなたの関わりが私どもに与えられていることでしょうか。
 しかしまた、弱さの中で思いわずらい、そうしたあなたの関わりを心許なく感じてしまう不信仰は、正直に認めなくてはならないものです。どうぞ、おゆるしください。信仰を強めてください。
 自分で自分の生活を作ろうと思い詰めるあまりに、共に生きている人々に注ぐべき愛を少なくし、思うに任せない出来事にたじろぎ身を固くしてきたようにも思います。なかなか、あなたを信頼しそのゆえに隣人を受けいれる生き方が身につかないと感じています。しかし、それ以外の生き方に答えがあると思ってはおりません。あなたが支え生かしてくださるということを知る以外に、私どもがほんとうに広くされるということはないのです。だからこそ祈ります。少しずつでも、しかし確かに取り扱ってください。こうして御前であなたのめぐみを聴き取ることがどれほど私どもの力であるかということに、望みを起き続けていることができますように。
 紛争のニュース、国同士の力のせめぎ合いのニュースをたくさん聞かされて過ごした一週間でした。どうぞ、戦いがどれほど無益であるかということに、できるだけ多くの人々――とくに政治的に責任を負う人々――が、まじめに考えていることができますように。多くの国々の栄枯盛衰を貫くようにして、イスラエルそしてキリスト教会という神の民に現される神のご支配の確かさ、そしてその不思議さに導かれてきました。小さな今朝の礼拝ではありますが、ここにある神の国こそ、永遠につながっているものであるということを見抜く信仰の目を与えてくださいますように。
 共に集えない信仰の仲間たちに神の祝福を与えてください。