主の日の祈り

主の日の礼拝にて

9/20礼拝にて

あなたを仰ぎたいという願い、いえ、仰ぐばかりではなく、もっと近くに、仰げずうつむいている時にもなお私どものうちにおられるキリストを知らせ、顔を天にあげさせてくださるのもまたあなたであることを知りつつ、御前に集っております。私どもの自己暗示や思い込みを超えて、あるいは気分の浮き沈みを超えて、確かにあなたと御子とに出会うことができる時として、この礼拝を豊かにしてくださいますように。
 私どもに特別にあなたを見分け、見つける能力があるわけではありません。御子をそれと知らず十字架に送った人々と同じ罪を抱える私どもです。一週間をふり返りましても、御子がお訪ねくださっているところをそれと知らず、恐れを深め顔を暗くして歩いてきたのかもしれず、せっかく語られている言葉に耳を閉ざしてきたのかもしれないと思っています。
平和の道のりが少しでも明らかになるようにと、日本の国が共々に認め合う憲法に忠実である道を歩めるようにと祈ってまいりました。この私どもの祈りの声が届いていないはずはありません。私どもの御名による祈りを聞くというのは、御子の約束です。一昨日、政治的に責任ある人々が選択した判断が、その負わされている責任に対して誠実であったかどうか、あなたが問うてください。
 弛まずに平和を祈ります。人を恐れに捕らえ、戦いに引きずり込む見えざる力の正体に、どうか私どもの目まで閉ざされてしまうことがありませんように。歴史と導きたもうのはあなたであると、この時再び新しく信仰を献げさせてください。
 東アジアの国々を守ってください。韓国でも中国でも、この日、あなたの御名がどれほど多くの人々によって呼ばれることでしょうか。どうぞ、礼拝をつかさどる人々に御霊を授け、人の心を深く造り上げる言葉を授けてくださいますように。福音を語る者達と聴き取る者達に平和の主が宿りますように。
 隣人を愛する私どもの歩みは確かであったでしょうか。ご存じのとおりの貧しい姿です。愛とは申しましても、結局、私どもの好き嫌いの上塗りをしているだけのことだけではないかと、自分をいぶかっています。けれども、ご覧下さい。その私どもがあなたの御前を離れてはおりません。どうぞ、この信仰を受けいれてください。キリスト・イエスにおける神の愛に育ててくださいますように。
 あなたのみ言葉を聴きたいのです。赦し、新しくし、私たちをきよめるあなたの言葉を求めています。
 集えない者達、病床にある者をとくに覚えてください。礼拝に来ること叶わぬ者達を憐れんでください。
 難民に、紛争のある国国に、緊張の高まる国同士に、食糧不足に、災害にあなたの憐れみを注いでください。