主の日の祈り

主の日の礼拝にて

「主の日の祈り」の舞台裏

 主日礼拝で説教の前に祈るようになったのは、2014年の新年からです。なぜ祈るようになったのかを知りたい、という声もありましたので、ここでそのことについて書いてみようと思いました。
 説教の前に私が祈るときには、だいたい書いた祈りを準備します。それは、祈りがいつも同じ言葉になることを避けることを意識しています。「言葉の摩滅」という表現に出会ったことがあります。同じ言葉を使い続けて、スムーズだけれども少しも引っかからないというようなことが起きるということの問題性を指摘した言葉でした。祈りにおいてもそれが起こると思います。同じ言葉で祈りながら、祈りがあまり思わしくない意味で習慣化してしまうのです(もちろん、祈りの習慣化それ自身は悪いことではないのですが、習慣が意味をなさなくなればそれはよくないことでしょう)。Y先生からおうかがいしたことがありますが、先生が入信なさった教会の、当時の牧師は、毎回違う言葉で祈ることを意識しておられたそうです。私もそうありたいと願いつつ、私の場合は書いた祈りを準備するということになっています。
 「祈りは書くものなのか?」という問いは当然あると思います。この辺の議論について、19世紀後半の英国のすぐれた説教者スポルジョンは、祈りを書くことについてある部分を批判しつつも、正しい心で祈りを書くことはありうると言っています。

自分の祈りを準備しなさい。……ある時、牧師のグループで討論されたことがある。〈あらかじめ自分の祈りを準備することは、牧師にとって正しいことであったか〉。(祈りを準備すべきという意見、すべきでないという意見について)私は両方とも正しかったと思っている。準備すべきではないという牧師たちは、祈りを準備するということを、表現の検討をしたり、一連の思想を整えたりすることであると理解して、それらすべてが霊的な礼拝に全く反するものであるということを語ったのである。霊的な礼拝においては、われわれはその事柄についても言葉についても、神の霊に教えられるべく、その御手に自分自身を委ねなければならないのである。この意見に全く同意する。それならば礼拝式文を用いさせればよいのである。しかし、祈りを準備すべきだと主張する牧師たちが、祈りの準備ということで言っていたことは別のことであった。頭による準備ではない。心による準備である。それはあらかじめ、祈りの大切さについて厳かな思いで考えることであり、人々の魂の要求するところについて黙想をすることであり、祈り願うべき約束を思い起こすということであった。そしてそのように、心の肉の板に書き証された願いをもって主の前に出て行くのである。これが、思いつくままに神のところに赴き、偶然のようにその御座の前に、明確な用向きも願いもないままに飛び込んでいくのよりまさっていることは確かである。……諸君の祈りの言葉は、簡潔で心に触れるものであるようにしなさい。会衆が、説教は標準以下だと、ときに思うことがあっても、祈りがそれを補っていることを感じ取るかもしれないのである。(『説教学入門』C.H.スポルジョン、H・ティーリケ編、加藤常昭訳、ヨルダン社、1975年)

 書くか書かないかということは、そういう意味ではたいした問題ではないということでしょう。要するに「心に触れるものであるように」ということが大切なことです。
 それならば、「心に触れる」というのはどういうことでしょうか。私なりに改めて言葉にしてみると〈私たちの心の状態に寄り添っていること〉と言えそうな気がします。私たちの心の状態とは、〈揺るぎない信仰かと言われればそうとも言えない。さりとて不信仰かと言えばやはり神を信じていることは否めない〉、そういう状態と言えばいくぶん的を射ているでしょうか。いわば自分の不信仰のなかから神に向けて立ち上がり始めている、そこに祈りの心があるとは言えるのではないかと思うのです。こうした神への弾力的な呼び声を祈りと言うことができるのではないかと思うのです。そこに生まれる祈りは、自分の不信仰にこだわらずに、神に向けて身を伸ばしている祈りとなります。そのような祈りのためには、自分の言葉の癖のまわりをいつもウロウロとしているような祈りを脱ぎ捨てる必要があるように感じます。時々、すぐれた祈りが集められている書物を参考にすることもあります。参考にとは、言葉そのものをまねするのではなくて、不信仰に滞らない弾力的な言葉のあり方を学ぶためです。こう言う祈りに学ぼうとするときに、自分自身の内心の不信仰までただされる思いがします。皆さんの心を代表して神の前に出る祈りのようであれば幸いなのですが。

 今はそれが書くという形になっていますが、やがて書かなくても自由で古びない生きた言葉で祈れるようになることを願っています。