主の日の祈り

主の日の礼拝にて

12/14礼拝にて

主の甦りを祝いつつ、ここに集っています。飼い葉桶にお生まれになった御子が歩みを進められたのは、死ぬべき人間の道のりです。それゆえに、もはや死においても御子の光を仰ぐことができるようになっています。私どもは様々なものの中を通りつつも、ここでこうして歌っています。死にも届くこの光が、私どもの実に現実的な一つひとつの悩みや苦しみ、悲しみにも射しているからです。どうか、あまりにも高く、あまりにも清らかな光で、この自分の上をすり抜けているように思い、自分には届かないように思い込んでしまうことがあるとすれば、この礼拝のなかで正しく光を回復することができますように。
  主よ、憐れんでください。自分に与えられている荷の重さに、あえぐことがあるのです。荷を負うにしても、もっとさわやかで報われる努力であればと思ってしまいます。与えられているものがあまりにも現実的ですし、悲しみに満ちていますし、苦しみや痛みに満ちています。もっとほかの荷であったらとも思うのです。他の人がうらやましくなることがあるのです。本当はそうした中で、いたわりの心や、忍耐の心や、したたかな信仰が作られているのかもしれません。主は「わたしのくびきは負いやすくわたしの荷は軽い」と言われました。その主が、どうぞそれぞれに与えられているものを受けとめていることができるように支えてください。各々に与えられているものの担い方を教えてください。
 世界にある悲しみや苦しみを、あなたが覚えてください。私どもも、心を開いて、祈り続けていることができますように。きらびやかなクリスマスのムードのなかで、私どもはひたすらキリストの到来を喜び、再び来られるキリストを待っていることができますように。
 行われる選挙に、どうぞ、国民一人ひとりが誠実に取り組むことができますように。私どもは主の教えに従って自分ばかりではなく、他者の幸せや、世界の平和を重んじていることができますように。間違えても傲慢な国民になることがありませんようにお守りください。