主の日の祈り

主の日の礼拝にて

4/9礼拝にて

父なる御神、主イエス・キリストの十字架の恵みを心から感謝致します。この十分な恵みのゆえに、御前に持ってくるどのような心も待っていてくださいます。こうしたあなたの深い憐れみのゆえに私どもの深くにある心――どこにも持って行きようのない心を、携えてくることが許されています。何という幸いでしょう。あなたが真実の限りを尽くして、私どもを待っていてくださったのですから、私どもの正直な心を、悔い改めをもって御前に捧げ、喜びの歌声、感謝の祈りを精一杯、御前に捧げさせてください。御言葉に導かれて、あなたの恵みの業を辿りつつ、感謝の心を確かなものとさせてください。
十分な愛に生きたか、祈りに生きたか、感謝に生きたか、信仰に生き方かを問えば、たちまち心許なくなる私どもです。それでも、ここで恵みを数えることが許されるのは、私どもが眠っている時にも、眠ることもまどろむこともなく支えてくださっているあなたの恵みと言うほかありません。どうか、私どもを鈍さから救い出してくださって、当たり前と思い込み、深く考えることも忘れてしまっている事々の中に、数え切れないほどのあなたの愛と知恵が溢れていることを知ることができるようにしてください。これも御言葉に導かれる他ありません。眠りやすい信仰を、御言葉により、あなたの真実により、揺り覚ましてください。
十字架の上で、苦しみ悩み、私どものどのような孤独よりも、どのような絶望よりも、深いところへと赴いてくださった主に感謝致します。陰府すら、主の足跡の残されたところとなりました。インマヌエルの恵みを数え損ねる地点が、本当はなくなっていることを、御霊によって深く知らせてください。
戦いの色合い、自分の国のことばかり考える色合いが増し、不穏な空気に包まれている世界を、どうか憐れんでください。愚かな戦いを繰り返すことがありませんように。過去の悲しみを丁寧に考える心を与えてください。とくに、政治的に責任を負っている者たちを、あなたが守ってください。戦いを避ける道、平和を重んじる道を選び取ることが出来ますように。
病んでいる者達、様々な戦いの中にある者たち、試練にある者たち、家族や共に生きる者への愛のわざに励んでいる者達を、どうか祝福してください。
教育ボランティアと家族を守ってください。
御言葉の前に留まります。ここが十字架の前となりますように。

4/2礼拝にて

十字架によって贖われたお互いが、こうして御前に一つになっています。私どもの能力や才能、あるいは様々な賜物を数えれば、それはまさに様々に違うものでありますが、しかし罪深さという点で、ここに一つになっています。人を愛せない心に悩み、罪深さを思い、心の深くにみじめさを抱え、誇っていたとしても、みじめさを多少払いのけられたという誇りです。自分のみじめさを思い知るとすぐに失われる誇りにこだわり、一喜一憂を繰り返している私どもです。他のどこへ向かうのでもなく、十字架の主のもとにある赦しの前に、一つに集っています。「誇る者は主を誇れ」と言われているとおり、キリストを私の誇りとしようとして一つになっています。うちに抱える祈りは様々に違いますが、しかし罪深さとその赦しを祈る祈りでは、一つです。どうか、福音を、私への福音を聞かせてください。そしてその喜びを一人でも多くの者に伝えるものとなることができますように。そのためにも、恵み深い主を知る喜びが深く私を捉えますように。
世界に平和をお与えください。自分の国のこと、さらには自分自身のことにだけ関心を集める社会が、どの国にも見えてきているように聞かされています。「自分を捨て日々自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われた主の言葉が、もはや古くなってしまったのでしょうか。けれども、他者を信じないで固く閉ざす心同士が造り上げている冷たい社会を思う時、人間は主の言葉に生きる以外にないと改めて思わされます。どうか、主のご受難を思う日が近づいてくるこの主の日、世界の教会がほんとうに十字架の主に目を注ぐことができますように。赦しや寛容を本当に学ぶことができますように。いいえ、単なる学びを越えて、主の御姿に捕らえられるキリスト者たちであることができますように。
政治的に重い責任を負っている人々をどうか憐れんでください。
病や患いにある者たちにあなたの顧みを注いでください。今朝、ここに集えない者たちもおります。主の憐れみと癒しをお与えください。家族のものの看護のために労を注いでいる者たちを助けてください。教育ボランティアをどうか、癒してください。その家族をお守りください。
新しい年度が始まりました。それぞれの歩みをあなたが守り導いてください。また、この教会の新年度の歩みにもあなたの祝福をお与えください。今日、主の御声を聞くことができますように。主の御名によって祈ります。

3/19礼拝にて

イエス・キリストの父なる御神
あなたに守り導かれ、今朝御前にあることを感謝致します。今、ここにあるあなたの尊い招きを、感謝致します。その招きがよくわからなくなっているとすれば、どうぞ、キリストのいのちを注ぎつつ招いてくださっているあなたの御姿が、御言葉によって良くわかるようにしてください。
あなたを見上げつつ歩んでまいりました。しかし、私どもが見てきたものにも、目が奪われ、心が捕らえられてしまうことも事実です。先を見ることが許されていない私どもは、しばしばあなたの導きを心許なく感じてしまうのです。十字架に向かわれる主イエスのもとを逃げ出してしまった弟子たちの姿――そこに行われるのが救いであることと告げられつつ、甦りを告げられつつも、それを信じることができずに、思わず逃げ出してしまった弟子の姿――は、私どもがよく知る自分自身の姿であります。信じる心の弱いものです。後であなたの導きを十分知らされてからでないと、心穏やかに物事を見ることができない自分ではないかと恥じています。それでも、あなたは本当に力強い御手をもって、私どもの思いを明るく裏切る所へと私どもを導いてくださいます。
信じることもまたあなたに呼び覚ましていただかなくてはなりません。どうか、不信仰な人間を赦し、助けてください。主イエスに導かれつつ、あなたと強く繋がれる祈りを習い覚えさせてください。
世界に平和をお与えください。政治的に責任を追うべき人々に、特別な顧みを注いでください。
春を迎えて、新しい歩みを踏み出そうとしている者達を、どうか、祝福してください。
行われる私どもの教団の年会で、新しい地へ任命を受ける伝道者たちにどうか力を与えてください。
病の中にある者たち、教会の礼拝へと心を向けつつも、様々な事情に阻まれている者たとをどうか憐れんでください。信仰を護り支えてください。私どもも祈りのうちに保つことができますように。教育ボランティアとその家族をどうぞ癒し支えてください。
御言葉を待ち望みます。主の御名によって祈ります。

3/12礼拝にて

父なる御神、あなたの子どもとされた者たちが、共々に御前にあります。主の甦りを記念しています。しかもその命が十字架の死からの甦りの命であることに思いを深めようとしています。どれほどの憐れみを、私どもがあなたからいただいていることでしょう。罪のゆえに死すべき者でありましたのに、そのことにすら気づかないで、案外まじめに生きていると考えているような私どもでありました。あるいはまた、それは過去のことではなくて、先週一週間でさえも、人よりもどこか正しく、どこかまさっているように思い、周りの人々を責めて、裁いて、自分を義として生きていたのではないかとふり返ります。
十字架に目を注がせてください。私どもがあなたの子とされるのに、父と御子が担ってくださった苦しみがどれほどのものであったかを見ることができますように。どれほどあなたに逆らう者であり、そしてそれを御前に招いてくださるということがどれほどの愛であるでしょうか。知り尽くすことができない者ですが、しかし、より深く、あなたの恵みの豊かさを知らせてください。
私どもの国を憐れんでください。災害の悲しみに慰めを与えてください。福島の原発は、依然としてどうしてよいのか、その方途が見えておりません。故郷を依然として失ったままの人々がおります。どうか、この国を深い思慮へと導いてください。政治的に重い責任を負っている人々を、あなたが憐れんでください。国同士の緊張が高まる道を選択することがありませんように、この国とそれを取り巻くアジアの諸国を覚えてください。その国々のキリスト者たち、教会を顧みてくださって、平和の主キリストに従う教会であることができますように。
様々なものを私どもも抱えて御前にやって来ました。どうしてもあなたの言葉が必要です。祈りも自分の言葉やそれが正しいかどうかもわからない願いで一杯になってしまいます。祈ってもなお去ることのない、恐れる心があります。どうかそれでも、祈りに萎え、祈りを放り出してしまうことがありませんように。どのような深い心も、ひたすらにあなたに注ぐことができますように。そのために、あなたの言葉を求めます。心から御国と御心を求めることができますように。
この主の日を覚えつつも、集えない状況下にある者たちを、とくに病んでいる人々、年を重ねている人々を御心のうちにとめてください。教育ボランティアに癒しを、そのご家族に守りを与えてください。
主の御名によって祈ります。

3/5礼拝にて

明るい春の光に照らされつつ、御前に集いました。主の十字架に思いを集める季節を迎えました。闇がどれほど深くとも、しかしあなたがお造りくださった光が闇に打ち勝つことを知らされております。十字架に貫かれたあなたの愛こそ、すべてに勝つものです。改めてそれを信じることができるように、今日、この主の日の祝いの中で知らせてください。恵みのかげりを思い描くような人生の、生活の部分がないわけではないのです。何度でもあなたが光を持ち込んでくださらなければならないところを抱えているのです。しかしまた、あなたが恵みのお方であることをおやめにならないと信じているからこそ、いま、ここに集っています。御言葉の光で思いがけない光を与えてくださることを信じています。新しい言葉をください。私どもの知らなかった恵みを知らせてください。光がこんなにも強いものだということを、私どもの思い込みを吹き飛ばすほどの御言葉を、御霊の風を与えてください。
私どもの疑い、あなたを小さくしてしまう罪が、恵みの豊かさに生きることを妨げてしまうからです。私ども自身がそこにわだかまってしまうことを思い起こします。ひとの罪をあげつらって、自分の過ちに気づかなかったことを。あなたのなさることにつぶやき、不平を抱きながら、御言葉を聴くことに打ち込み、祈ることに打ち込む生活を作らなかったこと。数えれば切りがない私どもの罪であります。
今、主の食卓を備え招いてくださる神よ。ぬかずいて真の悔い改めをすることができますように。へりくだる喜びを、そこで主を仰ぎ見る豊かさを味わわせてください。
私どもの国を思います。真実に国を愛したいと思います。この国を顧みてください。政治に責任ある者から、だれの目にもとまらぬような生き方をしている者に至りますまで、御心ならば、あなたの顧みのうちに置かれますように。この国に建てられて置かれている教会として、キリスト者としての責任をもう一度、はっきりとわきまえさせてください。総会を経ましたが、十字架と甦りに全存在を賭ける教会の歩みをもう一度整えさせてください。
私どもの祈りも、言葉も届かないもどかしさの中にいながら、心に覚えている悩みがあります。疲れ果てつつなお他者へのいたわりを強いられている者があります。依然として変わらぬ痛みや病の中で、ただ祈を深めるしかない者がおります。どうか、あなたへの呼び声を高くする歩みでありますように。教育ボランティアを癒してください。どうか、私どもの祈りにこたえてくださいますように。御国を来たらせてください。御心を行ってください。主の御名によって祈ります。

【参考:加藤常昭著『御前に注ぐ祈り』(キリスト新聞社)69-71頁】

2/19礼拝にて

あなたの豊かな守りの中で生かされ、こうして再び御前に集うことが許されました。あなたのそのような導きを信じることができなかったならば、今頃どんな歩みをしていたかと思います。一人で考えるには手に余る私どもの歩みであります。誰かに取りすがることもできません。自分で生きていこうとする時に抱えきれない抱え込んでしまうような私どもであります。そんな自分が一人で生きていたということを考えますと、いったいどうなっていたかと思います。様々なことを抱えましても今がこうして御前に飛び込んできて、あなたに祈り、あなたにゆだね、あなたに助けていただくことができるようにされています。どれほど幸いなことでしょうか。
主よ、しかし、御言葉によって深く探っていただかなくてはなりません。ときに私どもの心は曲がってしまいます。あなたの導きを信じられなくなってしまいます。光届かないところをあなたが尋ね当ててくださり、あなたが光を届けてくださることが必要です。主よ、どうか御言葉で探ってください。御言葉で訪ね出してください。そして御言葉で引き留めてください。自分一人の思いの中に立ち尽くすことがないように、豊かなあなたの愛の中に再び取り戻してください。
世界を思います。人間の思いだけが走っているのではないかと思われるような世界です。相手を顧みることを失ってしまい、慌てて自分のもとにいろいろなものを集めようとする世界であるように思います。主よ、各国に立てられている教会を憐れんでください。御霊を与えてください。御言葉の語り手を、御言葉の聴き手を、教会を御霊で捕らえてくださいますように。そして放っておいては決して自分から出てこない言葉を、どうか教会の人々が語ることができますように。受けるよりも与えるほうが幸いだとおっしゃった主の言葉を共々に語る群れであることができるように主よ助けてください。あなたのあなたご自身の導きと力が必要であります。どうぞ、教会の民をあなたがそのように祝福してくださいますように。どこかに主の御形を宿す教会の民であることができるように導いてください。今朝この集いを慕いつつも、様々な事情に阻まれて、ここに来ることのできない者たちをどうぞ覚えてください。挙げられる小さな祈りの声にあなたが寄り添ってくださいますように。決してその祈りが小さくないとあなたがお示しくださいますように。また教団をあげて祈っている教育ボランティアを覚えてくださいますように。大切な治療が月末になされると聞いております。主よ、顧みてください。あなたがこの治療をお用いくださいますように。癒しを与え、ご家族に守りを与えてくださいますように。こうしたことを携えながら、今御言葉の下に留まります。口を開き、心を開いてくださいますように。主の御名によって。

2/12礼拝にて

憩うべきお方の前に、深く息をすることが許されていますことを感謝致します。私どもがこうして御前に帰ってくることを喜び迎えてくださる父であられることを感謝致します。御国が来ますようにと、今日も心を合わせて祈りました。私どもの一週間の歩み、思い通りに行ったことにも、そうでなかったことにも、あなたご自身の御手がのばされていたことを改めて感謝致します。万事を合い働かせて益としてくださる摂理の御手が伸べられているということが、私ども深く休らわせます。
それゆえに、祈ります。休らうほどのあなたの支配を深く受けとめることができるように、今あなたの言葉を与えてください。あなたの支配がよくわからなくなるような世界の中を生きてきたとも言えるのです。ひたらすら自分たちの力の支配を拡張することに夢中になる世界ですし、そうしたことに成功かに見える人々もおります。しかし、幸せな世界が私どもの回りに実現してきているとは言えません。いったいどういう世界を人間が造り上げていることでしょうか。人間がその支配を実現することは、本当の答えではないとしみじみと思わされます。人間の望みやそれを成し遂げる力の延長に、何が現れてくるのか、深く恐れている世界であります。
御言葉に集中させてください。小さな教会の集いの中で聴き取るみ言葉ですが、しかし、世界を大きく捕らえているあなたの御声として受けとめさせてください。その言葉をもって世界を造られたあなたの御声が、ここに聞こえてまいりますように。細きみ声、しかし、真実なあなたの御声を聞かせてください。
世界の教会がそうでありますように。さして意味のない大声に満ちている世界の中で、細くとも静かに深く響くあなたの御声こそ、どの教会も聞き取っていることが出来ますように、キリストの霊を明らかにお示しください。どの教会も、山の上の町、地の塩、世の光であることが出来ますように。愛に生きられますように。平和を造り出すことが出来ますように。
政治的に重い責任を負っている人々をあなたが憐れんでください。判断を誤ることがありませんように。本当に大切なことを重んじていることが出来る冷静さをお与えくださいますように。
この主の日、教会の礼拝に集うことを望みつつ、そう出来ずにいる人々を覚えてください。祈りのうちに携えて御言葉を聞きます。何らかの形で、ここにある恵みがその人々の所にまで及びますように。教育ボランティアの治療を、どうぞ、あなたが守り導いてください。癒してください。主の御名によって祈ります。